1998年第一四半期、トレーダーらは試行錯誤の果てに、トレーディングの規模を拡大すればもっと金が稼げるという感触を得ていた。スキリングは同意し、トレーダーらのポジション制限を引き上げ、より大きなリスク投資ができるようにした。トレーダーたちは契約によって十分な電力を手当てし、送電網の要衝も支配して大きな儲けのチャンスを待ち続けた。それが訪れたのは1998年6月だった。中西部の発電所のいくつかが、7,8月の需要期を控えて、改修のために操業を停止した。しかしこの年はちょっと勝手が違った。猛烈な熱波が例年より早く襲来したのである。同時にバックアップ電力を供給するはずだった発電所の操業が台風で停止した。電力供給は瞬く間に逼迫し、価格は急騰した。小規模な電力会社は資産ショートに陥った。つまり相場が上昇する中で電力が購入できず、供給契約を履行できなくなったのである。通常なら長期契約の下でメガワット・アワー当たり20ドルから40ドルほどで販売される電力がいきなり500ドルにもなった。中小電力会社が供給義務履行不能に陥ると、本物のパニックが起きた。ブラックアウト(大停電)の恐怖の下で、電力価格はものの数分間で7500ドルにも急騰した。かつてならこうした地域的な供給不安が発生すると電力会社同士は常識的な価格で電力売買して融通した。しかし98年の夏には、紳士協定もマナーも遠い昔に姿を消していた。
しかしエンロンにとってはこれは7月のクリスマスだった。安価な電力を持つべき場所で持っていたのだから。あるトレーダーは、一日で6000万ドルを売り上げた。中西部の電力危機はわずか数日で終わったが、エンロンはそれからも長い間、利ザヤを取れた。小さな電力会社は破産した。ケンタッキー州最大の電力会社LG&Eはこの一週間の電力危機のために2億2500万ドルの損失を計上し、電力トレーディング事業から手を引いた。オスカー・ワイアットの会社コースタル・コーポレーションは1460万ドルの損失を出した。ダイナジーそのほかの会社は規制当局に価格統制を懇願した。市場操作の噂も報道された。しかしエンロンはそんな泣き言は言わなかった。中途半端な規制緩和がこの価格高騰の原因のひとつだと主張し、この電力危機を更なる規制緩和を求める材料に使ったのである。
エンロンは米国で4つの発電所を運営していたが、これらは規制電力事業ではなく、様々な州法や連邦法によって運営を任されていた。例えばテキサスの発電所は「認定施設」扱いだった。これは別の規制電力会社の事業地域で、地元の規制当局から特別許可を受けて発電所を運営するという立場である。しかしエンロンが電力会社になってしまうと-ポートランド・ジェネラルを買収すればそうなる運命だった-こうした発電所は認定施設の扱いを取り消されてしまう。そうなれば負債契約条項違反になり、それぞれの発電所に残る膨大な負債-数百万ドル規模だった-は、すぐに返さなければならなくなる。したがってファストウの使命は、エンロンをこれら発電所の所有者ではなくす道を見つけることだった。