毎年、年が明けると紡績メーカーは中卒女子の採用活動に入ります。当時中学生の高校進学率は全国で90%を超えていましたので、安い労働力の中卒者は「金の卵」と言われ、各社は懸命に充員活動を展開しました。カネボウ彦根工場の充員は基盤の一つが北海道でしたので、私は充員で真冬の北海道に何度泣く出張しました。本人は居ませんでしたが母親に向かってこう言いました。「娘をカネボウに出すんや。わかっとるな」 その言葉は有無を言わせない強圧的な、まさに命令でした。そんな人買いがこの日本に存在していることに驚くと同時に、その片棒を担いでいる自分にがっかりしたのを覚えています。
総合商社の時代
当時の繊維業界を語るには、商社の存在は避けて通れません。1970年代から80年代は商社の全盛期で、重厚長大産業のビジネスには必ず彼らが介在していました。特に「十大商社」と呼ばれた総合商社は繊維業から起業したところも多く、繊維のビジネスには欠かせない存在でした。当時の十大商社とは、三井物産、三菱商事、伊藤忠商事、丸紅、住友商事、日商岩井、トーメン、日綿実業、兼松江商、安宅産業です。商社にはそれぞれ得意分野があり、カネボウは繊維の貿易を通して十大商社全てと取引がありました。商社は単に繊維の売り買いに介在するだけでなく、取引の過程で発生する金融面も負担するなど、繊維業界には欠かせない機能を果たしていました。原料のワタから製品になるまで長期間必要な繊維産業は、誰かが金融負担の役割をしないと立ち行かなかったからです。
繊維の商取引では、ワタ⇒糸⇒生地⇒染色⇒加工⇒縫製⇒製品という工程を経る中で、色々な「テクニック」が可能になります。例えば「ワタ」を売って「糸」で買い戻したり、「生地」を売って「製品」で買い戻したりする時に価格を勝手に設定するのです。こうした益出しの価格操作は、一歩間違えると粉飾決算の温床となってしまいますが、歴史の長い業界なので生き抜くすべの一つとなっていました。
> 素直な告白、粉飾の手口の公開、よろしいこころがけで…。