「空気の研究」から「水=通常性の研究」まで、臨在感的把握とか、空気の醸成とか「父と子」の隠し合いの倫理とか、一教師・オール3生徒の一君万民方式とかそれを支える情況倫理と固定倫理とか、実にさまざまなことを述べてきた。では以上に共通する内容を一言で述べれば、それは何なのか。言うまでもなく、それは「虚構の世界」「虚構の中に真実を求める社会」であり、それが体制となった「虚構の支配機構」だということである。虚構の存在しない社会は存在しないし、人間を動かすものが虚構であること、否、虚構だけであることも否定できない。したがってそこに「何かの力」が作用して当然である。
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それは演劇や葬儀を例に取れば、誰にでも自明のことであろう。舞台とは周囲を完全に遮断することによって成立する一つの世界、一つの状況論理の場の設定であり、その設定の下に人々は演技し、それが演技であることを、演出者と観客の間で隠すことによって一つの真実が表現されている。端的に言えば女形は男性であるという「事実」を大声で指摘し続ける者は、そこに存在してはならぬ「非演劇人・非観客」であり、そういう者が存在すれば、それが表現している真実が崩れてしまう世界だる。だが「演技者は観客のために隠し、観客は演技者のために隠す」で構成される世界、その情況論理がが設定されている劇場という小世界内に、その対象を臨在感的に把握している観客との間で”空気”を醸成し、全体空気拘束主義的に人々に別世界に移すというその世界が、人に影響を与え、その人たちを動かす「力」になることは否定できない。