イギリス東インド会社はインドを植民地化するとインドを拠点に中国との交易を望んだ。当時はインドと中国間のノンストップ航海ができず、途中で水や食料を補給する寄港地を必要とした。それにはマラッカが最適だったが、マラッカは1511年にポルトガルが占領し、その後、1641年にイギリスのライバルであるオランダの手におちて、その支配・影響下にあった。そのためイギリス東インド会社は、マラッカよりも南の地にイギリス船舶の寄港地を確保することを目指す。この重要任務を負ったのが、イギリス東インド会社職員で、当時のスマトラ島のイギリス植民地ベンクーレン準知事のスタンフォード・ラッフルズである。ラッフルズは14歳の時にイギリス被害インド会社の職員となり、ほとんど教育を受けてないにもかかわらず、マレー語をはじめジャワ語などの地域言語に精通していた。またジャワ史を記すなど熱心な博学の東南アジア地域研究者と言える存在でもあった。
1819年1月28日、ラッフルズは港として優れた格好の島を見つけた。それが島南部が天然の良港で飲料水の補給も可能なシンガポール島である。シンガポール島はジョホール王国の領土に属し、支配者スルタン(国王)は別の島に住み、オランダの影響下にあることがわかる。シンガポールの植民地化にオランダが反対することは確実であった。しかし、さらに事情を調べるとイギリスに都合のいいこともわかってき、現在のスルタンは。1812年に前のスルタンが死去した後、兄弟間の王位継承争いの末に弟が就任したもので、兄は不満を抱いていた。ラッフルズは、この王位継承争いを狡猾に利用し、兄を正当なスルタンであるとして就任させ、交換条件として、スルタンに毎年5000ドルの年金を支払う条件で、シンガポール川河口付近一帯をイギリス東インド会社の領土とすることを認めさせたのである。1819年2月6日、両者の間で条約が結ばれた。イギリス植民地シンガポールの誕生である。しかし、この条約締結はイギリス東インド会社本部の了解を得たものではなく、明らかにラッフルズの越権行為だった。また、ラッフルズが懸念した通り、オランダはイギリスのシンガポール植民地化に反対し、ロンドンのイギリス東インド会社本部も、ラッフルズの勝手な行動を非難する。しかし、紆余曲折があったものの、最後には既成事実が物を言い、オランダは反対を取り下げ、イギリス東インド会社本部も承認したのである。