共産党による通貨統合
抗日戦争勝利後、開放された地区の各地方政府はそれぞれ通貨統合の作業を始めていた。解放区ごとに発券銀行を設立して辺幣を発行していたので、解放区の数が増えてくると、同じ地域で複数の辺幣と国民党の法幣が輻輳、入り乱れて流通する事態になり、まず地域ごとに再編・統合する必要が生じた。そこで共産党は拡大した解放区ごとに辺幣を一つに絞り、すべてのローカル通貨を回収した。しかし、その作業が終わる頃、46年7月に国民党・共産党の全面内戦に突入して通貨統合は中断した。48年8月19日に国民政府は法幣に代わって「金元券」発行に踏み切った。いわゆうデノミを断行した。1金元券は実に300万法幣元として法幣と交換し、1米ドルは4金元のレートに設定したが、効果は一月で消滅、悪性インフレはおさまらなかった。政権の堕落と共産軍の侵攻によるパニックのなかで金元券もまた紙くずと化した。統制を失い混乱の汚職・腐敗にまみれた国民党支配地域で民心は離反し、良識派は階級や身分を問わず、共産党主導の解放軍に傾いた。中国共産党は47年の夏には内戦の勝利を確信するようになった。人々は相手が持つローカル通貨を信用しないので、交易は大きく混乱し、通貨統合は緊急の課題になっていた。47年10月、共産党中央は華北に設置した財形事務所に「すみやかに発券銀行を統一せよ。統一銀行名は中国人民銀行とする」と指示した。48年12月1日、統合地域の発券銀行である華北銀行、北海銀行、西北農民銀行の三行を合併して石屋荘に中国人民銀行を設立した。設立宣言で人民銀行券の呼び方を「人民幣」とし、「人民幣をもって解放区の貨幣を統一し、同時に新中国の本位貨幣とする」とうたった。
人民幣でインフレ退治