オーストリアとプロイセン
我々は歴史に中に次のようなことを見る。すなわち、かつてドイツ問題の解決のために取ることができた二つの道-そしてその主な代表者であり主張者であったものは、オーストリアとプロイセン、ハープスブルグ家とホーエンツォレルン家であったが-は多くの人の考えによればもともとひとまとめにされねばならなかった。彼らの考えによれば、両方の道を一つに結合した力に託すべきだったのだ。けれどもオーストリアの意図は決してドイツ帝国を建設することにはなかったはずである。そしてこの上も無く強力なドイツ統一の帝国は、まさしく幾百万のドイツ人が断腸の思いで、我が兄弟牆にあいせめぐ最後の、この上なく恐ろしい徴表を感じたことから成立したのである。すなわちドイツ皇帝の冠は、本当はケーニヒグレッツの戦場(普墺戦争)から得られたものであって、後世考えるようなパリ全面の戦い(普仏戦争)において得られたものではないのだ。
 そのようにドイツ帝国の建設それ自体は何かある共通の意図が共通の道を進んだ結果ではなく、むしろ意識的な、しばしばまたヘゲモニーを求める無意識的な格闘の結果であり、その格闘から最後にプロイセンが勝者として登場したのだった。200年前には後日新ドイツ帝国の胚細胞となり、建設者、教師となるものはホーエンツォレルン家のプロイセンであり、ハープスルブルクではないだろうということを、ドイツ連邦のうちで誰かがはっきり本気に信じていただろうか!
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前線の兵士に対する恐怖
1918年11月7日以後に突然、革命の製造者として我々の前に現れたあの大きな犯罪者的組織を作る手助けをした。前線自体は、本来それとまったく無関係であった。もちろん前線にいるものたちはみんな平和への憧れだけは感じていた。だがこの事実こそ、革命にとっても非常な危険があったのだ。というのは、休戦後ドイツ軍が故国に近づき始めたとき、当時の革命家たちにとって心配な問題が常に唯一つあった。すなわち前線部隊は何をするだろう!野戦に居た兵士はこれを許すだろうか。ドイツの革命は、若干のドイツ混成軍団によって突然電光石火のように打ちのめされるという危険を犯したくなかったとき、この数週間に少なくとも外見的にはやわらげられたように思えたのだった。というのは、当時、ただ一人の軍団長が、自分に忠誠を尽くしている軍団でもって赤のボロぎれを引きずりおろし、「評議会」を窮地におとしいれ、万一抵抗した時には迫撃砲や手榴弾で打ち破る決心をしたならば、この混成軍団は4週間足らずに60個軍団の軍隊にふくれあがったであろうからだ。ユダヤの張本人は、他の何者にもましてそれを恐れたのだ。そしてこれを阻止するためにこそ、革命にある手心を加えねばならなかった。革命はボルシェヴィズムに堕してはならず、事態に即応して「安寧秩序」を見せかけねばならなかった。共和国を旧官吏の手から奪い、革命というハゲタカの鉤爪にあえて引き渡したのだ。そうしてのみ人々は、旧将軍や旧官吏をペテンにかけ、彼らから起こるかもしれない反抗を新しい状態の見せかけの無害さと平穏さによって、はじめから敵対心をくじくことを望みえたのだった。
1918年の11月革命の革命政府を、前線の軍部にいたヒトラーはかなり歯がゆい思いで見ていたようだ。この恨み節は、わが闘争の中で数回出てくる。革命後新政府、軍の最高司令官の変更、旧政府軍と革命新政府軍への微妙な移管時期。主戦力が前線で戦う中で、わずかな武装勢力が中央政府を打ち倒して新政府を樹立し、旧政府軍を反乱軍扱いしたとしたら、その恨み骨髄だろう