上書の中で康有為は、「職(わたし)は誠に煤山の前事を見るに忍びない。」という表現を使っている。「煤山」とは石炭の山であり、紫禁城の後ろにある景山のことである。元代に籠城に備えて石炭の山を築き、そのうえに土をかぶせ、すでに草木が生えていた。明の最期の皇帝崇禎帝は、景山で自殺して明朝は亡びた。「煤山の前事」とは亡国のことである。これは下手をすると不経済とされるかもしれない。「亡国」を「煤山の前事」と言いかえ、辛うじて弾劾を免れたのである。
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景山、紫禁城から見た見た。
中国、もとい日本含むアジア文化圏、やっぱめんどくせー!!
袁世凱の密告によって、変法派の人たちが逮捕処刑され、維新は百日で終わった。だが密告の有無にかかわらず、西太后はいずれ変法派を武力を弾圧するつもりであった。だから光緒帝はあのような緊急の密詔を出して、救いを求めたのである。袁世凱の日記によれば彼が栄禄に変法派の密計を告げたのは、9月21日の朝となっている。光緒帝はその時すでに幽閉されていた。光緒帝は9月20日、伊藤博文を召見した。これは形式的なものに過ぎなかった。玉座の後ろには西太后がひかえていた。そしてその後、光緒帝は幽禁されたのである。西太后は光緒帝を呼び出し、手を振り上げ、足を踏みならして面罵し、「酖酒をもって参れ」とどなった。毒を仰いで死ね、というのである。皇帝は俯伏して戦慄し、泣くばかりであった。軍機大臣王文韶はじめ王公たちが跪いて命乞いした結果、瀛台(えいだい、紫禁城に隣接した北海、中海、南海の3つの池のうち、南にある島)に流されることになった。変法派に対する逮捕はこれから始まったのである。
1900年、義和団事件 孫文とは直接関係ないが光緒帝の復権、義和団の北上によって、外国人と中国人キリスト教徒に対する迫害した。義和団を鎮圧した八カ国連合が北京に突入、西太后は紫禁城を脱出、北京はそれぞれ八区に分割された。そのなかで最も評判が良かったのが日本の占領地域であった。日本占領域が最も治安が良く他地域から人々が流れてくる。アメリカ占領地区は安全の点で第二位の評判を得ていた。八カ国最低の治安はドイツとロシア地区であった。
某大紳とは劉学詢のことであり、広州では公営トトカルチョ「闈姓」(いせい)の胴元を独占して巨利を得た人物である。だが帝王思想の持ち主だった。
史堅如の一族は曾祖父の時代に幕僚として広東に来て、こちらに籍を移してしまった。結婚その他の事情でこのようなことは多い。たとえば周恩来も江蘇省淮安県の出身となっているが祖籍をたどれば紹興である。史堅如20歳の時の写真が残っているが周恩来に酷似していることで一話題になった。
孫文たちは台湾総督児玉源太郎、民政長官後藤新平から支援を受ける約束をとりつけていた。だが後継内閣の首班の伊藤博文は政策を変更したのである。日本の選択肢は二つあった。第一はいま西安に逃げた清の首脳部には当事者能力はないから中国の南方数省が独立し、孫文を首班とする新政権を相手にするべきである。これが児玉の主張する孫文支援策である。第二は守旧派の失脚によってまだ清は実務派、たとえば李鴻章や張之洞たちの努力によってしばらく余命を保つ。交渉にあたっても疲労困憊した相手の方が日本としてはやりやすい。これが伊藤博文の見方である。その伊藤が首相となったのだ。やがて伊藤は、台湾総督が清国の反体制組織と接触すること、軍事顧問団を清国に送り込むことなどを禁じたのである。
鄭士良の死んだ翌月(1901年9月)、義和団事件の始末をつけた辛丑和約が結ばれた。死刑を含む百数十名の処分や、四億五千万両の賠償金などが決められた。清国の歳入が一億両に満たない時代である。この巨額の賠償金を一時に支払えるはずはない。39年の年賦で年利4%と決められた。四億五千万両というが専門家の計算によると利息を合わせて実質的には九億八千万両以上にのぼる。清国が滅びても、中華民国が負債を継承しなければならない。関税を担保に取られているので、支払いは確実であった。1940年(昭和15年)まで、中国は払い続けてやっと完済したのである。
【非ヨーロッパの戦争・内戦・紛争】
2012.10.04 宋と中央ユーラシア 3/4 ~宋周辺諸国
2012.05.17|攻撃計画 ブッシュのイラク戦争2/2~戦争責任
2011.12.26: 宋姉妹 中国を支配した華麗なる一族2/2 ~三姉妹の勃興
2011.10.26: インドネシア 多民族国家という宿命 2/3~紛争の火種
2011.08.22: 実録アヘン戦争 4/4 ~そして戦争へ
2011.03.24: ガンダム1年戦争 ~新兵器 3/4
2010.03.16: イランの核問題
2008.10.21: 東インド会社とアジアの海2
2008.10.20: 東インド会社とアジアの海