秀頼様大坂移住(正月7日に大老・奉行会議で決定)
前田利家を野心のない「只の老将」と甘く見ていたことが後悔されてくる。秀頼を大坂に連れ去られると、諸侯も大坂に行く。秀頼とともに大坂城に居住できる前田利家に比べて伏見に留まらねばならぬ自分の政治的不利は明らかである。だが57歳の今日まで幾多の苦難を乗り越えて来たこの肥大漢は、この程度のことではうろたえもへこたれもしなかった。家康は敵の仕組んだ芝居に自分が乗るという巧妙な手を使った。「10日の移住には準備ができぬという者も多いやに聞く。秀頼様と大老・奉行衆のご移動だけでも大変なのに、二百諸侯一度に動くと混雑を増すばかりだ。容易に手間取る向きは一旦秀頼さまのお伴を済ませた後、暫時伏見に戻って用意を整えてから改めて大坂に移るようになさるがよい・・・」
徳川家康も今日は秀頼を送って大坂に行くが、直ぐまた伏見に戻ることになっている。伏見において政務を代行するよう太閤の遺命によって定められているからである。先の見解はこれと同じ行動を諸侯にも認めるようというものだ。つまり、「豊臣秀頼にではなく、この家康の供をしても良いぞ」というのである。さらに家康はこの意味をよりはっきりさせる噂をも用意した。「道中、内府殿を襲う計画がある」というものだ。これは「わしの警護に駆けつける者はないか」という呼びかけである。これによって新に頼りになる与党を確かめると共に、自らの威勢を天下を誇示して、反徳川勢を牽制しようというのである。
大坂城に集まった部隊は諸侯の上方詰の兵員だけで構成されていたので、きらびやかな指物や馬印の洪水の割には実戦兵力が少ないことである。最大の集団でも毛利一族の2000人、ついで前田、宇喜多、佐竹の軍が1000人といった程度である。この点は伏見勢も同じだった。関東255万石の徳川家も今伏見に集めている軍勢は4000人にも満たないはずである。このままの形で軍事衝突が起これば大名・家老が自ら槍働きする奇妙な合戦になるだろう。当然彼らの支配層の死勝率が著しく高いものとなるに違いない。それは諸侯にとって最も望ましくない形である。双方にとって必要なことは何よりもまず国許からより多くの実戦部隊を呼ぶことだ。「それなら我が方が絶対有利や・・・」 彼は自信を持ってそう断言した。
今伏見に集結している諸侯は遠国のものが多い。徳川にしてからが関東江戸、陸路150里も離れている。伊達、最上、堀、蒲生らはより遠方だし、黒田、加藤は九州だから、毛利、宇喜多の勢力圏である瀬戸内海を突破しなければならない。それに対して大坂方は畿内、中国などが多く、距離と水運に恵まれている。「二十日の後には味方が数倍になるだろう」彼はそう読んでいた。そしてそうなれば、戦わずして伏見方を屈服させることも不可能ではないと考えた。彼の主君であり師でもあった太閤が得意とした「位勝ち」である。大坂方は大坂・堺という武器(特に鉄砲)生産と物資流通の中心地をすっぽり抑えている。瀬戸内海の海路は毛利・宇喜多の手で安全に保持されているし、紀伊・大和の大名もほとんど味方になっている。あとえ百万の軍が集まったとしても物資に窮することはない体制である。それに比べて伏見は、大阪で淀川の水運を止め、佐和山城で東山道を封鎖すれば、鈴鹿越えの東海道以外に道はない。長期持久となれば大軍を養えことは明らかだ。彼は大坂城に来た諸侯に説明して胸を張った。「短期決戦でも兵数で優位、長期時給になればなお有利」という計算が、はっきりと数値でもって示せると言うのである。
細川忠興は奉行の前田玄以、浅野幸長は奉行で父の浅野長政のもとに忍び込んでいた。五奉行が過言をわびる件について、内々の同意を取り付けておくためである。細川、浅野両人は伏見と大坂との和解の問題と奉行衆が詫びを入れる問題とを、別々の事として取り扱ったわけだ。これこそ、徳川の謀臣・本多正信が示した秘策だったのである。彼・石田三成が徳川方より示された和解の意向を知ったのは前田利長が利家を口説き始めた頃であった。話は宇喜多、上杉両家より回報されてきたのである。
「何、内府が縁組を解消して御掟には叛かぬという誓詞を交わそうと申して来た、というか・・・」彼は思わず声高に叫んだ。起きぬけに聞かされたこの報せはあまりにも意外だった。慶長4年2月3日、「その通りで・・・」 この報せを伝えに来た家老の舞兵庫が、片膝をついて視線を畳に這わしたまま答えた。喜んでいいのか、憤るべきなのか、分かりかねている様子である。今聞かされた報せが文字通りなら、徳川家康は大坂方の大老・奉行の意見を全面的に受け入れたことになる。まずはめでたい解決と言えるだろう。亡き太閤の遺命を尊び、豊臣政権の組織と法令を堅持しようとする彼・石田三成としては大いに喜ぶべきことだ。しかし、そう簡単に割り切れない気持ちが湧いてくる。
「何と、これはまた思いもよらぬ申し条やな・・・」
 伏見より届けられた訴状を一読するや、彼は満面に朱を注いで怒鳴りつけた。それもそのはず加藤清正、黒田長政、浅野幸長、福島正則、池田輝政、細川忠興、加藤嘉明の七名が連署したその訴状とは朝鮮再出兵(慶長の役)において戦目付を勤めた福島直高、熊谷直盛、垣見一直、太田政信の4人を虚言をもてあそんで遠征諸将に多大の損失を与えた故をもって処罰せよ、というものだったのである。朝鮮戦役に関する訴訟と言えば、昨年末から争われている加藤清正、黒田長政、鍋島直茂、毛利勝信の4名と小西行長、寺沢広高との間のものがある。だがこの件は既に訴訟却下の方向で事態を収拾することで五大老の合意を見ている。双方それぞれに支援勢力持つ大名だからその一方を処罰することなど、太閤死後の不安定な政情下でできるわけがない。つまり事の虚実に関わりなく、これ以外の結論は出しようがなかったのである。だが、今彼の手元に届けられた七将の訴えは問題を一層混乱させるものだ。しかも今度の訴えは明らかに彼・石田三成を攻撃目標としている。訴えられている4人の元目付は、いずれも彼が目をかけて取り立てて来た大名たちである。
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彼の領内・長浜の地は若き日の秀吉が本拠とした所であり、その故をもって太閤から「永代年貢免除」の特権を与えられていた。このため天正末年、この地に入った彼が佐和山築城に際してこの長浜にも人夫の提供を命じた時、長浜の町人たちは太閤の朱印状を持ち出してその不当を訴え、ついには太閤に直訴すると、いう騒ぎにもなった。だが彼は退かなかった。「築城は一度限りの普請手伝い、永代の年貢免除とは話が別だ」と突っぱねたのだ。太閤も恐れぬ強引さもさることながら、規則と論理に厳格な統治者の面目が示されている。その反面で彼は商工業の発展に努め、天下不作の対策には大いに意を砕いた。のちに、関ヶ原の戦いで敗れた彼を、領内小橋村の百姓・与次郎大夫がかくまうが、この百姓が敢えて危険を冒してそれをしたのは飢饉の際に領主より百石の米が小橋村に貸し与えられたことに感謝していたからだと言う。しかし、彼がかくまわれてることを密告するものが出た。それが他の村から来ていた与次郎大夫の養子であったため、この村では事後、20世紀の今日まで他村の者を養子としない慣習が続いている。彼が全村民にしたわれていた証拠と言えるだろう。
【戦争論・兵法】
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2009.12.16: 孫子・戦略・クラウゼヴィッツ―その活用の方程式
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