青年オサマ・ビンラディン
高校を卒業したオサマは、サウジアラビアで最高の高等教育機関の一つとされるキング・アブダル・アジス大学に進んだ。そこでは経済学と経営学を学んでいる。同時に一族の会社の舞台裏の力関係についても学んだ。会社の報告書に目を通し、経営会議にも参加していた。オサマはイスラム教の伝統ある中東の大学に進んだが、兄弟のほとんどは外国の大学で学ぶことを選び、西欧文化の自由と快楽を味わった。特にオサマの異母兄でムハマド・ビンラディンのお気に入りの長男サリムにはその傾向が強かった。サリムはロンドンで教育を受け、ハンサムで魅力的なことで知られていた。自家用機を乗り回し、プレイボーイという評判だった。70年代前半のオサマにも同じような傾向がみられた。サウジアラビアの大富豪の青年たちの多くと同じようにオサマもいくらか快楽主義のところがあった。レバノンの首都ベイルートを定期的に訪れ、活気にあふれた都会でナイトライフの興奮を楽しんだ
人生の転換点
飛行機事故によるムハマド・ビンラディンの死に伴い、子供たちはみな莫大な遺産を相続した。オサマの取り分は3億3千万ドル以上と考えられている。長男のサリムが企業の実権を握ったが89年にハンググライダーの事故で彼が突然世を去ると異母兄のバキが一族の長となった。知性も直感力もすぐれていたが、オサマはビンラディン家の大勢の息子たちの一人にすぎず、他の兄弟の中に埋もれがちだった。アフガニスタンの援助に向かうことでオサマ・ビンラディンは宗教的熱情を注ぎ込む道を見出した。自分が即兄その状況に反応したことをこう説明している。「私は怒りを覚え、すぐ、そこに向かった」
ンラディンが最初に向かったのは、アフガニスタンと国境を接するイスラム教徒の国パキスタンである。ここにきて、オサマ・ビンラディンの事業のセンスが非常に役立つことがすぐわかった。戦略的軍事行動の技術を教える軍事教練キャンプも何か所かに開設した。豊かな財産は事業の資金提供にも役立ち、彼の努力によって、世界中から何千人ものイスラム戦士がアフガニスタンの兄弟たちの支援にやってきた。運動を絶やさないために、医者、爆弾専門家、軍事戦略家、技術者などをアラブ世界全体から募集して戦士たちを支援させた。ビンラディンが建設業界に居たことは、ソ連に勝利するために必要な社会基盤を作る上で大きな利点になった。ブルドーザーや諸処の建設機械が到着し、塹壕を掘り、道路を舗装して、補給品を運び込み、部隊を戦略地域に送り込むことができるようになった。
アメリカからの支援
アメリカは、ソ連の領土拡大や共産主義の拡張を阻止しようとしていた。アメリカはアフガニスタンの反乱勢力に資金を提供することで、真の自由のための闘争を支援していると信じていたのだ。ある情報筋によれば、アメリカにスティンガーを提供させたのは、オサマ・ビンラディンのアイデアだったという。スティンガーは熱追尾型の地対空ミサイルで、ソ連の戦闘機を撃ち落とす性能を持っている。紛争の期間中にロナルド・レーガン大統領は、この種の武器を最も効果的な使用法を示した訓練教本を添えてなん10基もアフガニスタンに送った。スティンガーのおかげで、アフガニスタンの戦士たちは270を超えるソ連の戦闘機を撃ち落とした。ビンランディンはこの武器を特に好んだ。数年後にはアメリカに対して宣戦布告することになるイスラム過激派に武器を提供していたなど今となっては想像もできないことだ。
湾岸戦争
90年8月、イラクの指導者サダムフセインが隣国のクウェートに侵攻し、次の標的としてサウジアラビアを狙う姿勢を見せた。ビンラディンはサウジアラビアの指導者にアフガニスタンでの成功を例に引いて、祖国を救うためにイスラムの武装勢力を用いるように強く主張し、西側、特にアメリカに援助を求めることには強硬に反対した。ビンラディンは10ページからなる戦闘計画案を持ってサウジアラビア国防相スルタン殿下の執務室に押しかけたという。皇太子は「サダム・フセインが上空あるいは海上から攻撃して来たら、サウジアラビアはどう防衛したらいいのか?」「イラクの生物・化学兵器にどう対処するつもりなのか?」とも尋ね、ビンラディンはこう答えるしかなかった。「信仰の力で打ち負かす」 アメリカ軍がやってきたのはその後間もなくだった。
出サウジアラビア
オサマ・ビンラディンの思うようにはならないことをサウジアラビアの指導者はよくわかっていた。それどころか以前は自分たちに都合が良かったビンラディンへの大衆の英雄視と人気が、今回は自分たちに不利益をもたらす可能性があることに気付いていた。サウド王家はビンラディンに国民感情を否定的に操作するだけの影響力があるとみなし、王室の行為を露骨に非難しないように警告した。彼の一族が長年甘い汁を吸ってきた実入りのいい政府施設の契約を打ち切ることまで臭わせてきたのだ。ほどなく、サウド王家との関係は国を出た方が賢明だとビンラディンが思うまでに悪化した
91年、サウジアラビアは反政府計画に加担したとしてビンラディンを国外追放した。ビンラディンはイスラム原理主義が政権を握るスーダンに家族とともに移り住むことになった。日中の気温が40度近くになるにもかかわらず、ビンラディンはどちらの家にもエアコンをつけないことにした。簡単に手に入れられる贅沢品を敬遠するのはビンラディンにはよくあることだった。あるジャーナリストは彼の言葉を引用してこういっている。
「贅沢な暮しに慣れたくない」

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