タングートの盛衰
宋は蘭州から西寧にかけた地域(今の甘粛省西南部から青海省東部)に目を付けた。タングートに抑えられた河西の東西貿易路の、いわあ裏街道として、この祁連山脈西南地域を使うことが可能であった。この地域のチベット系の集団を青唐きょうといったがここにタングートにおおわれた涼州のチベットや甘州のウイグルなどが入り込み、天山ウイグル王国とも連絡を持った。しかし、タングート軍の勢いは強く、宋は苦境を脱することはできなかった。
12世紀初頭、ジュシェン金と宋とが連合してキタン遼をおいつめていく過程で、タングートも、この新興のジュシェンと組むことになった。タングート・キタンが連携していた対宋同盟は、タングート・ジュシェンにきりかえられて継続されることになったのであり、宋が事態を転換させて主導権を握ることはあいかわらずできなかった。そればかりか宋の北側における、この新しい連携は強化されて、宋を南方へ押しやった。こうしてタングートは領土を青海方面に拡大していったのである。
13世紀になって、局面は変わる。チンギス=ハーンのモンゴルがジュシェン金を攻めるようになると、タングートもこれを利用しようと考えてなん像に使節を派遣し、名目上、君の立場にあった金を挟撃しようとはかった。だがモンゴルの攻撃の前に金・宋も和平を回復し、タングートもその攻撃にさらされるようになると、結局タングートは1227年、ジュシェンを兄、みずからを弟の立場に昇格させて、ふたたび手を結んだ。それもつかの間1227年、チンギス=ハーンみずからのりだした征服戦争に敗れたタングートは、モンゴル軍に降伏し、政権を失ったのであった。
天山ウイグル王国とチンギス=ハーン
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キタン人もジュシェン金もタングート西夏も、新たな帝国に飲みこまれていった。ウイグルのバルチュク王はチンギス=ハーンの息子たちの兄弟となり、本領を安堵されることに成功した。これは単に礼儀的なものにとどまらず、この世紀の末ちかくまでほぼ実質を保ち、ウイグル王統の保証という点では14世紀になっても継続された。
しかし、中国もホント大変だね。当時の勢力地図が全てを物語っているが、”天下統一”したものの・・・またいつ反乱がおこるかマジで分からんわ。
文字作成のエネルギー アルタイ語の世界
テュルク後はアルタイ語に属する言葉である。キタンとジュシェンは300年以上にわたって、東北アジア、北アジア、そして華北の地にあいついで統合勢力を築いた。ジュシェンは華北支配を続けるうちに「中華体制」のなかにまきこまれていったが、キタンとともに「中華文明」の根幹である漢字による支配に、完全には組み込まれない体質をそなえていた。その象徴がそれぞれに独自の文字である。キタンもジュシェンもタングートも独自の文字を作った。テュルク系の人々が西方文化の導きによっていちはやく文字文化を確立したのに対して、この動きは200年から400年ほどおくれている。しかも、テュルク-ウイグル文字は現在のモンゴル文字に継承されて、いまなお使われているが、この3者の文字はいずれもいまでは全く使われていない。そればかりか、その言葉も、ジュシェン後が、満州語の流れをくむシベ語として今にかすかに伝わるのを除けば、死後である。
さぶいなぁ・・・今でもウイグルとモンゴルが同じ文字を使っているのか・・・、そりゃ中国も神経質になるわ・・・。
ペンは剣よりも強しの別の面が見れるような気がするな。国家・民族・文字というものの消滅と継続はセットになっているようだ。
名称の連続性という面から厳密に見ると、17世紀末から20世紀はじめまで、ウイグルの名は歴史に華方。15世紀以降から次第にウイグルの名が消えて行った原因の一つは、彼ら自身の政治権力が消滅していったからであることは言うまでもない。それにくわえて、イスラームの東への浸透によって、イスラームという新しい大きなアイデンティティがうまれ、ウイグルとしてまとまった主張する意味が失われたことをあげなければならない。一方、仏教徒ウイグル人のあいだだけには、おそらくイスラームと対抗する「われわれ意識」の証としてウイグルの自称は保たれ、清朝、乾隆帝の時代の17世紀末の河西地方の一角にかろうじて残った。ウイグル人の本拠、東トルキスタンにおいては、イスラームが地歩を確立した後の時代になると、分立しがちなオアシスごとに、たとえばカシュガル人、ホタン人、トゥルファン人、クチャ人などと呼ぶか、または土地の者(イェルリク)、テュルク人などと呼ぶのみであってウイグルの名称は忘れ去られていった。モンゴル高原の時代からの名称は途絶えたのである。20世紀になってウイグルの「民族」名称が復活した。19世紀末以後の民族意識の高まりを背景にしてのことであった。中央アジア住民の呼び名を決める際に、言語学者マローフの提唱で、古名のウイグルが復活した。1921年、まずソ連で採用され、中国では1935年から用いられた。このような名称の浮沈にもかかわらず、現実には名称が消えていた時代の東トルキスタンの住民についても、便宜的にウイグル人と呼ぶことは多い。とりわけ、現地、新疆の現在のウイグル人たちにとって、自民族の歴史は一貫していなければならないものであろう。たとえ各種「民族」集団の混交などがあっても、また確たる証拠が少なくても、遠い過去へ、学問的に立証されているようも前の時代にまでさかのぼって自民族の歴史を認識しようとする傾向がある。それはときに民族分裂主義と中国政府当局から批判されながらも、現代の民族のアイデンティティを求めようとする欲求として潜在し続ける。
たしかに中央ユーラシアからみた周辺文明圏への影響という意味では、東側のジプシー問題なわけだ。
中央ユーラシアという広い領域は、かつてロシア帝国と清朝とにほぼ二分された。前者の領域はソ連に、後者は中華民国、そして今の中華人民共和国に継承された。ソ連の衛星国としてモンゴル人民共和国もあった。こうした広領域国家は、近代西欧が「民族」と定義した人間集団を内に含みこみながら続いてきたものだが、いまや大きく変容を遂げた。ソ連は、各共和国が独立して独立国家共同体という形に再編された。モンゴル人民共和国も、伝統的な名称であるモンゴル国(ウルス)となった。これらの新生国家は、いわば「民族」の国である。旧ソ連から独立した中央アジアのカザフスタン、ウズベキスタン、キルギズスタン、トゥルクメニスタン、タジキスタンの5カ国、そしてモンゴルはそれぞれ、かなり強く「民族」アイデンティティを具現化しようとしている。政治、経済の運営には厳しい前途が予想されるものの、「民族」の自意識は高まった。こうして「民族」と呼ばれるような集団が、自前の国を持とうと、持つまいと、その規模の大小を問わず、「われわれ意識」をもっていることに、いまさらながら、多くの人が気づく時代となったのである。
一方、中国派従来の国家の枠組みを維持し、公認されているだけで55種類の少数民族が、人口の約8%を占め、主に国境地帯の広大な地域に居住する。旧ソ連からの独立国家の誕生が、これらの国境地帯の「民族」に少なからぬ影響を及ぼさないわけがない。「民族国家」を求めるつぶやきが聞こえてくる。しかし中国は、構成諸民族の統合を図るために、独自に「中華民族」という概念を持っている。中国のみならず、いずれの国もそれぞれが、程度の差はあるものの多民族国家でる。それは人々の移動を含む長い歴史によって形成されてきたものだ。かつて第一世界大戦前後、バルカンに民族紛争の火種ありおされ、その解決策として提唱された「一民族一国家」というアイデアもいまだに実を結んだとは言えない。ユーラシア大陸のどこにも実現できていないのである。近代の思潮の柱のひとつ、社会主義思想による運動も、階級闘争を優先させてきて、民族問題にはどこか楽観的であった。とても民族問題を解決してきたとは言えない状況であろう。今後の中国が注目される。
エキゾ予想:俺が生きている間に、中国もインドネシアも現在の領土を保持することはできず、必ず分裂する。
この本は宋の本だから書いてなかったけど、ラストエンペラー愛新覚羅溥儀、清朝の始祖のヌルハチって音からして中国音じゃねーと思うんだわ。満州人って顔がツングースだし、字も漢字ではない、漢民族から遠く離れてる。300年の長い歴史を越えて、溥儀の時代には中国化・中華化・漢民族化したとは思うがな。
【民族意識系】
2012.04.25|美しい国へ 2/3 ~平和な国家(国歌)
2011.08.17: 実録アヘン戦争 1/4 ~時代的背景
2011.05.09: 日本改造計画1/5 ~民の振る舞い
2011.03.25: ガンダム1年戦争 ~戦後処理 4/4
2010.09.09: ローマ人の物語 ローマは一日して成らず
2010.08.02: 日本帰国 最終幕 どうでも良い細かい気付き
2009.08.20: インド旅行 招かれざる観光客
2009.08.14: インド独立史 ~東インド会社時代
2009.05.04: 民族浄化を裁く 旧ユーゴ戦犯法廷の現場から
2009.02.04: 新たなる発見@日本