田中は上京を決意した。その頃、初恋をしていた。相手は町役場の電話番をしていた3つ年上の女性
った。田中の勤めていた土木派遣所の電話は1番、警察が二番で、役場が三番。田中は彼女のことを
「三番さん」と名付けた。昭和9年、田中は信越線回りで柏崎駅から上野駅へと旅立つことになった。もち
ろん鈍行列車である。次の駅は鯨波。ホームに人影があった。三番さんである。人目につくことを恐れて
次の駅を選んだのだ。停車時間はわずか30秒。彼女の白い手が封筒を差し出した。記者は再び動き出
す。彼女はハンカチを小さく振った。封筒の中には簡単な手紙が入っていた。
「よく勉強ができますよう、お番神さまに祈っています。」
後日談がある。戦後第一回の衆議院選挙に立候補した田中は柏崎小学校の講堂で第一声を上げた。
数百人の聴衆が集まっていたが、その最前列に子供を両脇にした一人の女性が座っていた。人妻の
落ち着きが加わっていたが、まぎれもなくあの三番さんだった。田中は目礼する。彼女も目礼を返す
>昭和9年、角栄は16歳。16歳対19歳かー。うーん、わかるねぇ。そのくらいの年なら、中学上がりの
>猿女には興味無いな。
>久しぶりに会うと子供つれたりするんだなぁ。うんうん。って俺も人のことは言えんが。
故郷では遠縁に当たる近藤家の娘になるとまだ思われていた。父のために借金に行った家の娘である。
しかし、田中の気持ちはこの娘から既に離れていた。仙台の陸軍病院に入院していたとき一度尋ねてく
るようにいったにもかかわらず彼女は来なかった。除隊後、故郷からとんぼ返りする時も一緒に来ないか
と誘ってみたが煮え切らない態度だった。坂本家のおばあさんに娘を誰かに引き合わせてくれないかと
頼まれ、いつも身の回りの細かい気遣いをしてくれることに好意を感じ始めていたこともあってこの娘との
結婚を決意した。これが糟糠の妻となるはな子である。はな子は31歳。8歳年上
だった。
>金より気遣いか。にしても決断早いな。速攻、決めてる感じある。
>角栄もそこに関してはあんま考えてないだろ。
田中は昭和40年2月1日から日本経済新聞紙上の「私の履歴書」に登場した。81回も「円・銭」のことに
触れた
田中の履歴書だが、いじましさがない。むしろ金にまつわる苦労や喜びを臆面もなく語る文章は
明るくユーモラスですらある。
田中は開けっぴろげで正直でもあった。金についての記述だけではない。田中の「履歴書」には女性が
数多く登場する。異性として意識した女性である。小学校の時箒で追いかけられた女の子が、にわか
雨に降られて困っていた田中にマントに一緒に入らぬかと誘ってくれたこと、上京する時柏崎の次の鯨
波でひとり見送ってくれた初恋の君・三番さんのこと、いつも自分の係りだった理髪店の美人理髪師・
お仲ちゃんがいたずらで鬚を剃り残し以来口髭が田中のトレードマークとなったこと、事務所を構えて
からのある雪の晩、長岡の宿の離れの小部屋に忍んできた若い芸者のこと、出征前に同棲していた
女性がいてハウスキーパーになってくれていたが姉に強引に別れさせられたこと、除隊後事務所に借
りた家の娘であるはな子と結婚したこと。福田の「履歴書」はといえば、女性はただ一人登場しない。
京都の下京税務署長時代に結婚した同郷の三枝のことのみである。中曽根は二人。海軍士官時代
結婚した蔦子。それに学生時代、伊豆に旅行した際、中曽根たち学生に好意を寄せてくれたうなじの
美しい女中さんのこと。隠し事のできぬ田中を女性たちは許したのだろう。一種のセックスアピールも
あった。地方の演説会に行くと老若を問わず女性がわっと集まり田中に触ろうとした。演説が終わると
一番若い女性には見向きもせず最年長らしい女性に近づき真っ先に握手
した。
>私もネーさんに対する言動は常に最優先するよう心がけております。
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